鉄道ジャーナル別冊・懐かしの列車大追跡パート3

 真っ先に『走るコック人生』を読んだ。面白かった。確かに食堂車の厨房で熱湯を扱ったり天ぷらやフライの調理中に急停車したらタイヘンだわ。その上に新幹線食堂車で京都−新大阪の間に昼食をとろうという無茶なお客もいたという。
 鉄道というもの、特に日本のような秒単位の世界では、つい詰め込んでしまえるような錯覚が生まれるのかも知れない。でも現実には1分2分の遅れでおじゃんになるようなスケジュールを立てる方が悪い。多少のずれを見込んでおくのがビジネスにおける基本であろう。
 旧海軍では『5分前』が基本であった。5分前に着くつもり、5分前から待ち合わせの場所で待機するように早め早めに行動しておけば、今の鉄道の1分2分の遅れは問題とはならないし、その数分の遅れを回復させるために危険な運転をさせることもない。5分前精神でだめなほどの大きな遅れであれば客先も納得してくれる可能性も大きいだろう。
 それはともかく、別冊となった鉄道ジャーナルのルポ記事はちょうど私の高校時代の愛読記事であっただけに、これぞジャーナル、という感じである。JR移行直後、北斗星が登場したりJR四国2000系DCが出たり、北海道のDC快速プロジェクトなど、新生JRを盛り立てていこうという気持ちが何ともすがすがしい。『しなの』は381系時代の記事と展望グリーン車が連結されたころの記事など、鉄道の歴史とまでは言わないにせよ、変遷が如実に分かって面白い。
 No34『懐かしの国鉄列車』も読みたくなる。10系客車の急行の様子など、私は模型でしか知らない。だからこそ、読みたい。
 鉄道は人々の息吹が通って成り立っている。鉄道員の息吹、乗客の息吹。人のいない鉄道は廃墟でしかない。廃墟と化した廃線であっても、そこに撮影をしたり、廃された路線跡を訪ねる人がいる限り、そこに風景が生まれ、それは鉄道なのだ。逆にどんな都会であっても、人が途絶えればそれは廃墟である。まさに鉄道は生きている。しかし、生きている以上、新陳代謝はある。それを切り取り、保存し、再現する。鉄道趣味とはそういう意味で、その息吹にたいする観察眼こそ心髄であるのかも知れない。
 模型にしろ、写真にしろ、そこには観察眼、そしてその観察をする心の深みが要求される。そしてその心の深みは、自然と鉄道から沿線の建築、事物、歴史にまで広がっていく。その深みがあるからこそ、私は鉄道趣味に強く惹かれるのだ。
 こうして過去のルポライターたちの記事を読むと、自然と背筋をただしてしまう。私はこれだけの観察眼と、その背後の心の深みを持っているだろうか、と。
 そして昨今のジャーナルは、という気持ちもなくはないが、それはそれで、この時代に即したものなのだろう。
 でも、私は時折鉄道ジャーナルのバックナンバーのルポ記事に挿入されている観察眼とそれが描く風景の妙味、『旅情』は、これからも生き残って欲しいと思う。それが『スーパーなんとか』という、最新鋭の足周りと内装がありながら、間接照明など工夫がありながらも殺菌されたような無機質の空間に、自動放送に案内放送が省略され、1分1秒を争うあまりに車内販売さえ廃止されてしまう特急列車に舞台が変わっても。
 その『スーパーなんとか』という銀色とFRP造形の列車にも、人の息吹はある。